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挙式

「なぁ、カラ松」

 俺が声をかけると彼は不思議そうな顔をしてこちらを向いた。ほんの少し、小首を傾げる。眉間に入れられていた力が抜け、カラ松の目が大きく見開かれる。濁っていたその瞳に光が宿る。この彼の一連の動作にもすっかり慣れてしまった。

「お前…おそ松なのか?」

 「あ〜うん、そうだよ。久しぶりだね」

  カラ松の『時間』は、どうやらずっと昔の俺が家出をした頃まで戻っているようだ。

  まだ、大丈夫だ。カラ松は俺を覚えている。

 しかし、カラ松にはじきにこの記憶も消えて、自分自身のことすらも思い出せなくなってしまうのだろう。それはもう抗うことのできない運命らしい。

 

 カラ松の記憶は新しいものから順に、少しずつ消えていく。同じものを食べて、同じように眠って、同じような生活をしていたカラ松にだけ何故このような悲劇が起こったのかはわからない。神様の悪戯だったのだろう。きっと、俺みたいに意地の悪い神様がこの世界にはいたのだ、多分。

  仕事をしているわけでもなかったし、幸いにも影響は家内でだけで済んだ。その影響というのも、大層なものではなかった。例えば、カラ松が買い物に行ったり、散歩に出かけたりする時は、必ず誰かが一緒にいる。1人では帰り道が分からなくなってしまうからだ。家自体の場所は変わっていないけれど、町並みは常に変わっていたから今のカラ松では迷子になるのは必然だろう。他にも、こうしてカラ松の時間に話題を合わせたりだとか、カラ松が疑問を持った時には出来る限りそれに答えるだとか、そういうもの。正直、少し面倒くさい。それでも、俺たちが6つ子のままでいるのには、これが最善なのだと思う。

  実を言うと一度だけ、俺はカラ松を殴った。思い切り殴って、カラ松を罵った。お前は俺との約束を忘れたのかよ、死ね、と言った。まだカラ松の病気が発覚したばかりの頃で、俺はその状況を受け入れたと思っていたのに、いざとなったら俺はガチギレした。その時のカラ松の顔はとても悲しそうであったし、泣きそうであったが、本当に泣いていたのは俺の方だった。思わずカラ松に涙を見せてしまったのは悔しいけれど、きっと俺の涙も、俺の言葉も、はたまたその時に自分がひどく傷ついた事実も、今のカラ松は覚えていない。それでいい。ね?

「あのさ、カラ松」

「どうしたんだ、おそ松」

 あぁ、そういえば最近はめっきり俺たちのことをブラザーと言わなくなったな、なんて思っている自分がおかしい。今だから言えることだけれど、俺はイタいカラ松が好きだった。カラ松がそこに存在しているだけで笑えた。こんな人間なかなかいない。

「俺が家出してからさ、何ヶ月くらい経ってた?」

「そうだな…今は何月だ?」

「5月だよ」

「じゃあ2ヶ月だな!」

 なんだ、まだ結構覚えてんじゃん。その事実が嬉しくて、不覚にも口元が緩んだ。それに気がついて、慌てて表情を引き締める。一度ゆっくりと深呼吸をして、真面目な顔をしてカラ松に向き直った。

「今日俺がこの家に戻って来たのはね」

 俺につられてカラ松の顔も硬くなる。やめとけって、お前はそんな顔は似合わない。俺こんなに緊張してるのに、お前までそんな顔したら、お兄ちゃんドキドキで死んじゃう。

 でも、きっとその言葉の意味もカラ松には理解出来ないのだろうけど。

「カラ松さ」

 精一杯、戯けた顔を見せてみる。

「俺に誘拐されてみない?」

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