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挙式

 海の家のコインロッカーに預けていた貴重品を取り出す。ナンバーは長男の俺は『0501』、次男のカラ松は『0502』だ。分かりやすいだろ?『OSO1』と『OSO2』、考えた奴天才だと思わない?ま、俺なんだけどね。

 夕日を見ようと思ったけれど、残念なことに日没が近づくとみるみるうちに天候は崩れ、ついには雨が降ってきてしまった。傘は持って来ていなかった。寂れたビーチの無人の海の家で雨をしのぐ。正直なところ、雨に打たれて身体中についた塩を洗い流したかった。けれど、それをすれば間違いなく風邪をひくことになるから、雨が弱まったところを見計らって銭湯にでも行く方が良いだろう。

 ところが雨は弱まるどころか、むしろ強くなっていって。それから、風も強くなってきて。

「なんで海の家に誰も居ないの!あぁ、まだ5月だからか…誰か助けてー!寒いよー!」

「文句を言うな、むしろここで雨風をしのげていることが奇跡じゃないか」

 ここぞとばかりにまともな事を言ってくるから嫌だ。カラ松の発言に俺は何も反論出来ずに、視線を空へ向けた。

 着いた頃は清々しいほどの快晴であった空はすっかり分厚い雲に覆われており、世界が霞んで見える。俺の真横でカラ松も真っ直ぐに海と空を見つめ、その凛々しい横顔に思わず見惚れそうになる。なんというか、表情が若い。言わずもがな、カラ松の中身は俺よりも10歳若いから、そう感じてしまうのも仕方がないのかもしれない。

「カラ松」

 声をかけるつもりなどさらさら無かった。それなのに無意識に名前を口にしてしまったようで、俺は自分でしたことなのに心底驚いた。それでも俺の声に反応してこちらへと視線を移すカラ松。俺の次に発する言葉を待つような目に、ちょっと狼狽えた。

 何を言えばいい?

 何も言うことなど無い。

 好きだよ、愛してる

 いや違うな。ムードが違う。ムードが。

 こういう時は世間話でもすればいいのだが、世間話というほどの世間話の話題も俺は持ち合わせていない。

「…きょ、今日はいろんなことしたな」

 散々考えた末に出てきた言葉は、これだけだった。そして、言葉にした瞬間、3秒前の自分を殴り殺したくなるほどの後悔をした。

「ん、あぁ…そうだな」

 そう言って、カラ松の瞳が急速に光を失っていくのが分かった。

 しまった、と思った頃には時既に遅し。いくら動揺していたとはいえ、俺は最悪なことに、カラ松の地雷をあまりにも不躾に踏み抜いた。

 カラ松に今日の記憶なんてある訳がないじゃないか。

 俺の発言はカラ松にとって、あまりにも残酷で非道なものだった。

「…最近、いろいろなことが思い出せないんだ。自分が今の今まで何をしていたのか、何を言われたのか、誰に出会ったのか…思い出せないんだ。本当だ…本当に…」

 カラ松の声が震えている。それも、ひどく怯えるように。

 直近の記憶が保たない、この違和感はカラ松に常につきまとっていたのだろう。自分の記憶が信じられなくなることも多々あったに違いない。そんな時、彼の中に信じられるものはあったのだろうか。自分さえ信じられない、記憶が消えていく、その恐怖に取り憑かれながらも、カラ松はずっとずっと、

 俺たちの昔の時間の中で生きているのか。

「朝起きて俺は、家出をしたおそ松を探さなければと思った。だが、そこからいつどのようにしておそ松と再会を果たし、今ここで雨宿りをしているのか…」

 何も思い出せない。大きな手が頭を抱え、喉から声を絞り出すようにして言う。なんて苦しそうなのだろうと思った。同時に、こいつはこの恐怖を俺や兄弟や家族に悟られないよう、穏やかな表情の仮面を被っていたのかと思うと、こちらの心が押しつぶされてしまいそうだった。カラ松の呼吸が浅くなってきたから、過呼吸にならないように背中をさする。速くなってきていた呼吸を落ち着かせ、カラ松は深呼吸した。

「…すまない」

「うん、大丈夫大丈夫〜まぁ、カラ松がいろいろ思い出せないってのは分かってるからさ。そりゃ、ちょっと寂しいってのはあるけど、俺が全部覚えてるから」

 多分、と心の中で付け足す。

「聞きたかったらなんでも聞いて。出来る限り答えるよ。」

 これもまた、多分、と心の中で付け足した。もしかしたら、俺は俺の都合のいいようにお前の記憶を捻じ曲げてしまうかもしれない。

 例えば、俺とお前は今恋人同士なんだよ、とか。半分嘘じゃないし。

 言ってて俺の方もなんだか悲しくなってきて、下手したら泣いてしまうんじゃないかと思った。

「おそ松、ひとつだけ言える事があるんだ」

「…何、覚えてなくてつらいって?」

 涙ぐみそうになるのを堪えて、必死に声が震えないように言う。多分上手く誤魔化せた。上手く笑えている。まぁ、笑えていてもいなくても、どうせカラ松の記憶には残らないんだけれど。なんとなく、カラ松の前では見栄を張っていたい。

 カラ松の方へ視線を少しだけ向ける。カラ松は俺の言葉に、首を横に振っていた。

「詳しいことは何も覚えてはいないんだが、間違いなく今日の俺も幸せだったことは分かるんだ」

 屈託のない笑顔でそんなことを言うものだから、俺は耐えきれずに泣いた。

 泣きながらキスをした。その味がやけに塩辛かったのは、涙のせいか海水のせいかは分からない。

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