forever in my heart
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驚いた拍子に目が覚める。勢いよく布団から身を起こし、呼吸を落ち着かせるが、動悸と冷や汗がおさまらない。起きた瞬間に芭蕉の顔を見る方がましだ。最悪の目覚めである。
あの着物には見覚えがある。否、見覚えがあるという程度は遥かに超えている。夢であろうと見間違うはずがない、あれは芭蕉の着物だ。
何故あの場に芭蕉がいるのか。以前ならば大層な夢を見たものだと軽く流すことが出来たのであろうが、ここ数か月見続けているこの夢がただの夢では無いことくらい嫌でも分かる。
暫くして、停止していた思考をどうにか働かせ、曽良は周囲を見回した。今日に限って芭蕉は部屋に居ない。なんとタイミングの悪い人間なのだろうか。
(…まぁ、今は)
普段通りの生活をしよう。
普段通り…?
曽良の表情が強張った。
芭蕉が来ない日は自分は何をして暮らしていただろうか。
否、問題はそこではない。
芭蕉の居ない芭蕉庵で自分は何をして暮らしていただろうか?
芭蕉庵とはもともと、芭蕉が暮らしていた家ではないか。しかし今は曽良が暮らしている。そして芭蕉が芭蕉庵に訪れるのだ。しかし芭蕉の部屋は確かに芭蕉庵の一角に存在している。では芭蕉は何処からやって来るのか。
今までの時間の矛盾点が脳裏に浮かび、一気に疑問が沸き起こる。
いつから、どこから、狂い始めたのだろう。
タンタンッ、と戸が叩かれる音がした。思考を止め、立ち上がって来客を迎える。
「あ、曽良さん、いらっしゃったんですね!お久しぶりです」
「風流さん…」
お久しぶりです、と曽良も返事を返した。風流と会うことが久しぶりであるというより、門下生と会うこと自体久しい。
「まだ芭蕉庵に住んでいらっしゃるんですか?」
「はい。そちらは今どうされてますか?」
「いやぁ、至って普通の家で普通の家族と暮らしています。芭蕉師匠の句会に通っていた頃が懐かしい…」
そこまで言って言葉を切り、風流は遠くを見つめるような目をした。
「早いものですね」
ふっ、と柔らかく微笑む風流。同じ師匠のもとについていたというのに、こうも自分とは違い表情豊かな人間だ。薄い唇が言葉を紡ぐ。
「芭蕉師匠が亡くなって、もう半年ですか…」
しみじみと感慨深いものを感じたのか、うんうんと一人で風流が頷く。そして顔を上げて、ふと曽良の様子に違和感を感じ、あれ、と声を出した。
「曽良さん、体調でも崩されてるんですか?」
曽良の顔を真っ直ぐに見つめ、風流は小首を傾げる。
「顔が真っ青ですよ?」
「たっだいまー!今日はお散歩してきちゃったよ!って曽良くんあれ?どうしたの?」
戸を開けて足取り軽く室内へ入る芭蕉は、障子を開けて正座をしたまま外を眺めている曽良の静けさに思わず足を止めた。漂う緊張感。曽良の端整な顔立ちに夕陽が射し、その厳かな雰囲気はしかし何故か穏やかな空気を纏っている。
「…幼い頃、酷い熱を出したことがあるんです」
唐突に、曽良が口を開く。芭蕉と目を合わせることはしない。ただ、遠くの空を見つめ、淡々と言葉を紡ぐ。
「生死を彷徨った僕は、その時に閻魔大王に出会いました。最近、その時に感じた空気を貴方から感じるんです」
沈黙。
やがて曽良は体の向きを変えて芭蕉の方へと向き直った。黒曜石のような瞳、しかしそれはひどく穏やかだ。
「芭蕉さんはお元気ですか?」
陽に背を向けているというのに、眩しい物を見るかのように曽良は目を細めた。突然の言葉に芭蕉は大きく瞬き、そして柔和な笑みを浮かべる。
「…なんのこと?私はここにいるじゃない」
「もう、分かったんです」
静寂を壊さぬようにそっと立ち上がる曽良。芭蕉の手を掴み、その手を引いて芭蕉の部屋の前へ連れて行く。深く息を吐き、曽良は意を決したように扉を開けた。
ここの部屋を開くのは何ヶ月ぶりのことだろうか。机や筆、その他句集や土産物の箱等、全て当時のままにしてある。ただひとつ、曽良の記憶に馴染んでいないものがあるとすれば、取って付けたように置かれた芭蕉の仏壇だ。
曽良がその前へ芭蕉を連れ、そして手を離した。仏壇へ向き直り、備え付けられた線香にマッチで火をつけ、鐘を鳴らして静かに目を閉じて手を合わせる。そんな曽良の様子を芭蕉は黙って仏壇の脇に立ち、ぼんやりと眺めていた。
合掌していた手を下ろし、顔を上げて目を開く。曽良はゆっくりと芭蕉の方へ顔を向けた。
「…うん、芭蕉さんは元気にしてるよ」
穏やかな表情を浮かべ、芭蕉が笑う。
刹那、するりと芭蕉だったものが剥がれ落ちるように、その姿が変わる。藤色の物珍しい型の服、奇妙な形の帽子、まごうことなき曽良のよく知っている閻魔大王の姿。
「久しぶりだね、曽良」
にぃ、と閻魔の口角が吊り上がる。さも愉快そうにクスクスと笑い、そして曽良の頭に軽く手を乗せた。
「大きくなったね」
「お久しぶりです」
芭蕉と違って冥府の王の手を無造作に振り払うことも出来ず、曽良は頭に閻魔の手を乗せられたまま軽く一礼をした。昔と変わらない姿の閻魔に曽良が追いついたその背丈は、今やほとんど差が無い。たかが数十年、されど数十年、閻魔と曽良の時の流れは違う。そして置かれている境遇も全て異なっている。
「…いつまでそうなさっているおつもりですか?」
「え?ああ、ごめん!」
閻魔が手を乗せている所為で頭を下げたまま顔を上げることの出来ない曽良が言うと、思い出したように閻魔は慌てて手を退けた。弾かれたようなこの動きが、なるほど芭蕉と似通っているのかもしれない。状況が状況とはいえ、曽良が芭蕉に何の疑問も持たなかっただけのことはある。あるいは、芭蕉の振りをする癖が未だ閻魔から抜けきれていないのかもしれない。あくまでも別人である閻魔に芭蕉の姿を重ねてしまってことが何となく不本意で、曽良は気を紛らわすかのように乱れた髪を軽く整えた。再度閻魔に向かい直る。
「何故、こんな真似を?」
「芭蕉さんからの要望だよ」
やはり、と曽良は思った。どうせそんなことだろうと、あの夢で芭蕉の姿を見てから、薄々何か余計なことをしたのだろうという予想はしていたのである。あの人は死んでからもそのままだ。
閻魔が軽い口調で続ける。
「まあ、俺も曽良とは面識があったし、そんなに長い時間傍にいることは出来ないけど、芭蕉さんが育てたなら強い子に育ってるだろうな、ってさ。ちょっとの間だけなら時間もあるしいいかなって軽く了承したんだよ。」
「…半年だなんて、長すぎやしませんか」
「俺にとっては一瞬だよ」
「…貴方のせいで毎晩魘された」
閻魔の顔が強張った。
「それは…予想外だったっていうか、なんというか…」
俺の記憶は曽良に伝えようとは思ってはいたんだけど、魘されるとかいうのは話が別っていうか、などと言い繕う。その様子に曽良は訝しげに目を細めた。曽良の視線が痛くて、思わず視線を逸らす閻魔。それなりに後ろめたい気持ちはあるらしい。少しの間、口を一文字にして沈黙を生み出し、しばらくして「でも」と言葉を続けた。
「でも、夢のおかげで風流くんが来てすぐに分かったんでしょ?」
「……。」
図星だった。あの夢があったからこそ曽良は、閻魔の存在によって生じた矛盾に糸を手繰り寄せるように理解したし、またこの超次元的とでも言える現象を抵抗なく受け入れることが出来たのである。逆に、毎晩夢として閻魔の記憶が曽良へ流れ込んできていなければ、もしかしたら曽良は閻魔の存在に気がつくことも無かったのかもしれない。そうであれば曽良は、こうして芭蕉の部屋も開くことは無かったのかもしれない。
芭蕉の葬式の後、曽良は芭蕉の部屋を封印状態のようにして扱っていた。その部屋を見たら芭蕉を思い出してしまうから、過去を封じ込めたのである。その時、曽良は存在しない過去に構っていたところで現在は変わらないし、ならば目を向ける必要は無いとしていたのだが、どうやらその考えは偏った価値観に基づくものだったらしい。現在の自分を創り上げるのは過去の自分なのだ。
閻魔はふふふと笑って、何も言い返さない曽良の額に人差し指を当てた。
「最後に、この記憶だけあげるよ。君は自由だ、自分の道は自分で選べばいい」
ニィ、と笑ってみせる。まるで少年のような無邪気な笑み。その三日月形に弧を描いた紅い瞳の奥に、閻魔は真正面から曽良の姿を映した。
「楽しかったよ」