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forever in my heart ​

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「曽良くん、起きて。朝だよ」
 身体を揺すられて目が覚める。瞬間、白い光が瞼越しに網膜を刺激。薄っすらと目を開ければ芭蕉がこちらを覗き込んでいた。僅かに眉をひそめる曽良。奇妙な夢からの目覚めは清々しいものにしたかったというのに。朝から不快なものを見てしまった、と目を逸らせば強烈な太陽光が射し込み、その眩しさに思わず再び目を閉じる。いつもよりも少し寝過ごしたのかもしれない。日は既に部屋を暖めるには十分なほど昇っていた。
「…いつ来たんですか?」
「三十分くらい前だよ。いつも起きてるけど、今日は君なかなか起きてこないから」
 そうですか、と軽く返事をして身を起こす曽良。まだ完全には頭が覚めていないらしい、また勝手に他人の家に無断で上がり込んで、と言おうとして、今更にも程があるし馬鹿馬鹿しくなってやめた。
「朝ごはん作ったけど、食べる?」
「…材料はどこから?」
「…も、もももも勿論、このハムサオ松尾芭蕉師匠が持って来たよホバアアァゴメンなさい殴らんといて!」
 無視して容赦なく芭蕉の頭部を叩く。朝食を作ったことや、食料庫から材料を勝手に使ったことは別に問題無いのだ。ただ、ここまであからさまな嘘を吐かれると腹が立つ。
 芭蕉が嫌いなわけではない。芭蕉を俳聖としてあるべき姿にするための所業だ。そうでなければ、わざわざ汚い年寄りを自ら手を出す筈がない。芭蕉を強打する身にもなって欲しいものだ。曽良の打撃によって、その度に芭蕉が受けた痛苦と同じだけのダメージを曽良の手も受けている。
「布団、畳んでおいてください。僕は朝ごはんを食べてきます」
 静かに立ち上がる。崩れた浴衣を軽く整えて曽良は襖に手を掛ける。
「えぇ、私が畳むの?」
「当たり前じゃないですか。ほら、早く!」
「あんまりドゥ…」
 芭蕉がひどく残念そうな顔をして、しかし曽良は颯爽と寝室を後にした。

 曽良が芭蕉庵に住むようになって随分と経つ。階段を降り、昔芭蕉がワックスをかけ過ぎて一時期とても滑りやすくなっていたフローリングを過ぎると、左側にあるのが芭蕉の部屋である。その部屋を曽良は何年も開けていない。別に勝手に開けて入っても良いのだけれど、何となく憚れるのだ。今日もまた、その部屋を一瞥し、曽良は更に奥へと足を進める。芭蕉の部屋の奥にある和室に、食事をする部屋があるのだ。戸を開くと、卓袱台の上に食事が並べられた部屋が見えた。
 鯖の煮物、大根の味噌汁、五穀米、他にも煮浸しなどが添えられている。湯気が上がっていて、まだ温かい。そういえば、と曽良が思考を巡らす。芭蕉の手料理を食べるのは久しぶりだ。というのも成長してからは曽良が食事を作ることの方が多かったからである。
 手を合わせて、いただきます、と小さく口を動かし、箸を手に取る。心地よい熱を持つ食事が寝起きの身体に染み渡る。ほう、と息を吐いた。
 ふと、昨晩見た夢を思い出す。
 黒い、と言うほか無いような、表現し難いあの世界。何処かで見たことがあるような気がしないでもないが、全く思い出せないし、そもそも本当に見たことがあるのかさえもわからない。しかし、夢の中で自分は確かにその景色を見慣れていると感じた。そして夢から覚める直前に見たあの銀髪の人物。顔は見ることは出来なかったが、恐らくは曽良よりもほんの少し背の高い青年。肌は褐色であった。周りがあまりにも黒で満たされているため、その銀髪は非常に彩度の高く、目に留まりやすかったのを覚えている。
 中途半端なところで目覚めてしまったものだから、不毛なことではあるとは思いつつ多少は気になる。あのジジイは随分と余計なことをしてくれたものだ、と思った。考えてみれば、最近は句会の仕事が多くて睡眠不足が続いていたから、今日くらいはゆっくりと眠りたかった。
「曽良くん、お布団畳んだよ…って曽良くん!お箸止まってるよ!食べながら寝てるの!?」
「寝てませんよ」
 いちいちうるさいですね、言いながら味噌汁を啜る。確かに少し温くなっていた。考え事をし過ぎたのかもしれない。
(でも、眠いのは眠いですね…)
 折角の機会であるから、芭蕉に句を詠んで貰おうかと思ったけれど、今は体力回復のために芭蕉のことは居ないものとして、さっさと寝てしまおう。
「ごちそうさまでした」
「美味しかった?」
「美味しかったですよ」
「フッフッフッ、流石はハンサオ松尾。曽良くんの胃袋を掴むことくらい朝飯前なんだよ」
「芭蕉さん」
 はっきりとした口調で曽良が名前を呼ぶ。何?と小首を傾げて曽良へ向き直る芭蕉。その頭部を曽良の右手が、蠅を追い払う時のそれと同じように、勢いよく叩いた。

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