特別な人
帰り道、ナギが駅のトイレで件の紙袋を置き忘れて帰ろうとしたところで、親切な人間が声をかけてきた。
「忘れ物ですよ」
手に持っているそれに視線を向けると、間違いなく今朝の綺羅がナギに手渡してきたもの。ありがとうございます、と微笑みながら受け取る。その拍子にナギの顔を見た男の目が、倍の大きさに見開かれた。声をかけた相手が国民的アイドルであることに気が付いたのだろう。決して珍しい反応ではない。こういった顔をされる経験は少なくなかった。この先もきっとそうなのだと思う。
本物の帝ナギかどうか尋ねてくる人間も多いが、周囲に人が多くいる駅中だったからだろうか、声をかけてきた男は二、三度ゆっくりと瞬きをして何も言わずに立ち去った。もしかしたらあまりアイドルに精通していない人間だったのかもしれない。それでも少し離れたところで再び振り返ってナギの姿を確認する。そして何かを思い出したようで足早に人々の流れに紛れていった。
HE★VENSの帝ナギという存在は、本当に有名だ。伝説の新人賞、うたプリアワードへのノミネートは、HE★VENSの名を、そして帝ナギの名を世界に知らしめる効果が絶大であった。あれから五年以上が経ち、今では自分たち自身が伝説となった。SSSの決戦ライブや、シャイニング事務所との合同ライブは日本中が、否、世界中が注目した。現在の帝ナギは“最近流行りの”という段階などとうの昔に過ぎ去っている、老若男女に知られたアイドル。ナギの名前を知らなくとも、顔は知っているという人間も多いだろう。街を歩けばいたるところに存在している広告において、自分の顔を見ないことの方が少ない。
ああ、だからだろうか。もはや帝ナギという存在は、この地球上の景色として溶け込んでしまっているのだ。広告の中からそのまま出てきたような容姿のアイドルに偶然出会っても、この街では奇跡的でも特別なことでもない。
たかが置き忘れの荷物を手渡されただけで、どうでもいいことまで考えてしまう。それなのに結局、紙袋を手放せないまま帰りの電車に乗る羽目になっている。
今日は本当に、散々な日だ。何も手につかないし、する気にもなれない。綺羅を恋人にすることで最近は影を潜めていた漠然とした大きな不安が再びナギに襲い掛かり、呼吸を、鼓動を、どこかおかしくしている。身体が自分のものではなくなったかのようだ。否、それは今に始まったことではなかった。いつからか己の支配が効かなくなっているこの身を、薬を使って強制的に制御しようとしているではないか。自分は一体何を今更考えているのかと思って、ナギは小さく溜息を吐いた。
(それもこれも、あいつが変なことを言ったからだ)
あの男が、この紙袋を不審がり、不安を煽ってきたから。
だってもしも発信機が取り付けられていたら、ナギの芸能人生が終わる。
思考が回帰して、冷や汗が流れた。
衝動的に電車を降り、ナギは駅の多目的トイレに入った。鍵を閉め、荷物を置き、乱暴に菓子の包装を解く。紙も破き、箱も開けて、中身の菓子も全て取り出し、底板も外す。指先が上手く動かなくて、乱雑な解体になる。厚紙の裂ける音が、包装紙が擦れる音が、タイルの個室に反響。しかしそんなことに気を留められるほどの余裕もない。綺羅に手渡された物に含まれる全てを隅々まで探し、やがてこれ以上何も隠されていないと思えてきたナギが我に返ると、目の前には癇癪を起こした子どもが散らかしたかのような惨事が広がっていた。それでも怪しげな小型機材のようなものは発見されなかったという事実にほっと胸を撫でおろす。口元が綻び、よかったと思わず声が漏れそうになる。全てナギの被害妄想で、綺羅は今日のナギは親戚の叔父に会いに行っていると思っている。大丈夫、大丈夫だと自分に言い聞かせながらナギは、出した物全てを紙袋に詰め直した。
トイレを出て、電車に乗り直す。人の少ない駅に行く必要があった。降りた駅は覚えていない。それでも、周囲に人がいないことを見計らってゴミ箱に押し込んだ時の耳障りな金属音と紙袋の擦れる音は、しばらくナギの耳に残った。
宿舎に戻ると、ピアノの音が聞こえた。綺羅が弾いているのだろう。しかし玄関の扉の開閉音が響いた瞬間、その音は止んだ。しばらくしてパタパタとスリッパの足音がこちらに向かってくる。
「おか、えり」
今日は他のメンバーは全員仕事だ。綺羅も急な予定の変更がなければ休日ではなかったはずである。逆に言えば、ナギが誘いを断ったため綺羅は今日一日を一人で過ごすことになったのだ。
「ただいま。わざわざ出迎えてくれなくてよかったのに」
「……恋人、だから」
またそれか、とナギは思った。まるでナギに甲斐甲斐しく世話を焼く行為全てを、恋人だからという理由で綺羅の中で合理化させているだけのようにすら感じる。
しかし、いちいち気にしても仕方がない。他人の性質というものはそう簡単に変わるものではない。それ以前に、これが彼なりの誠意なのだとしたら、それを理解できずとも受け入れるだけの器量は必要なのかもしれない。靴を脱ぎ、振り返って上体を屈ませ、脱いだものを揃える。身体を起こしてもう一度振り返ると、未だ綺羅はその場に立ったままだったものからナギはビクリと身を強張らせた。綺羅はナギの一連の動作を無言で見つめていたようだった。
「……な、何」
「デートは……今度、原宿に、行きたい」
「えっ、何でっ?」
予想外の誘いに、思わず大きな声が出た。喫茶店で思い至った発信機の存在についての可能性が、再び脳裏をよぎる。否、中身は全て確認した。それらしきものは無かった。もしかして見落としていたか、と身構えたところで、しかし綺羅は特段変わった様子も微塵も見せずにナギへの返答をした。
「以前ナギが、ヴァンに……シフォンケーキが美味しかったと、話していた。だから」
言われて、記憶を遡る。確かにナギはヴァンに「お出かけどこ行っとったん?」と尋ねられた時に、原宿の喫茶店に行ったと話した記憶があった。男との取引で利用している喫茶店は、看板メニューがシフォンケーキらしいから、それを言った気がする。しかしそれはいつのことであったかが思い出せないほど前のことだ。
ヴァンとの会話を聞いて、覚えていたのだろうか。
だとすると、綺羅は相当にナギのことを気にかけているし、よく見ている。こちらが意識すらしていないことも、全てその黄金の瞳に映しているのか。いっそ発信機を付けてもおかしくないような歪んだ男であれば、素直に警戒できるものを。純粋にナギに対して向けている意識が大きいだけだというのは、逆に少しばかり不気味で、恐ろしい男だ。
「……ああ、うん。あのお店のことね」
「俺が知らない、ナギの行く店に、行きたい」
加えて、押しも強い。
「……分かった」
「約束だ」
「うん、わかった。恋人だから、綺羅のお願い叶えてあげる」
そうでも言わなければ綺羅は決して引いてはくれないだろうということが察せられた。こちらから交際を持ち掛けたくせにデートの誘いを断ったという負い目もある。そんなナギの思考を察したのか、あるいはナギの言葉を文字通りの受け取り方をしたのか、恐らくは後者であろう、綺羅は満足そうに一度頷いた。
詳しい予定は追々決めようということで話は落ち着いた。昨日のような突然の誘いを受けずに済むようで、少しばかり安心するナギ。隠し事をするということは面倒なことも多々あるのだが、それを選択しているのは自分である以上、その面倒ごとを全て処理するのも自分である。逆に言えば、それができるだけの自負もあった。綺羅とは完璧で健全な恋人としてのデートを完遂させよう。そのためには、デートのプランはこちらで考えた方が良さそうだなと何となく思った。あまり取引で使用している喫茶店付近には近づきたくないという思惑もあるが、今目の前にいる綺羅の様子から推測するに、彼は少々こういったことを必要以上に張り切ってしまうような気がする。
休日が判明次第お互いに報告をするという方向で話がまとまったところで、そういえば、と綺羅が口を開いた。
「叔父さんは……元気に、されていたか」
「ああ、うん。元気にしてたよ」
それ以外に答えようもないし、これ以上の詮索は勘弁してほしい。幸い、綺羅は「そうか」とだけ言って、ピアノ部屋に戻っていった。