特別な人
左腕の袖を捲って、右手に持った注射器の針を肌へ突き刺す。ピリッとした痛みに耐えてそのまま針先を奥へ進めると、その痛みは鈍いものに変わる。ある部位に到達したら、注射器の中身を投入していく。体内に異物が押し込まれていく感覚は、慣れればなんてことない。最後まで押し込んだ注射器を、腕から丁寧に抜く。注射器と針はそのままプラスチックケースへ。じんわりとした痛みの残る腕にガーゼを当てて揉み込む。しばらくしてガーゼを見ると、小さな小さな赤い点がひとつ。ほとんど流血していないことを確認して、ナギはほっと息を吐いた。
だいぶ注射の打ち方も上手くなってきた。今ではもう、打った直後でも凝視しない限り跡は見当たらない。
思春期早発症の治療のために使われる薬がある。二次性徴を遅らせる効果のあるものだ。通常は月に一回、通院して投与されるらしい。
ナギにはそういった疾患がある訳ではない。むしろ身体の成長が遅いほうだ。しかし、ナギにはこれが必要だった。必要だが、医学的には不適切な服用。だから、注射器を用いての投薬だとしても、自分自身で投与するしかない。
宇宙一キュートなアイドル、帝ナギ。
キューティ・ナギの寿命は、ナギに二次性徴が来るまで。
これは延命処置だ。
自室を出ると、建物内は静寂に包まれていた。ナギ以外の人間が昨晩から外出していて屋内にいないのだから当然のことである。デビューして数年経つが、HE★VENSの中で唯一の未成年のナギは、深夜帯の仕事は行うことができない。
昔は成人組が四人で深夜の生放送に出ているのを、瑛二とシオンと共にテレビの前のソファに座って鑑賞していたものだ。今ではその瑛二とシオンも、その番組に出るようになった。それだけでなく、ナギ以外のメンバー全員が、昼夜問わずの多忙なスケジュールに追われるようになった。必然的に、夜はナギが一人で留守番をすることが増えた。朝起きて、誰もいないということも、珍しいことではなくなった。
キッチンの戸棚を開けて器を取り出す。あまりにも静かであるから、カチャカチャと食器がぶつかり合う音が、とても大きな音に感じる。器にシリアルとドライフルーツを入れる。冷蔵庫を開けて牛乳を取り出し、シリアルにかける。引き出しを開けてスプーンを取り出し、ナギはリビングのテーブルへと移動した。
スプーンで器の中身を軽く混ぜ、それを口へ運ぶ。まだ牛乳を吸いきっていないシリアルが口内でジャリジャリと音を立てている。
ああ、味がしない。
一人きりの食事は、砂を噛んでいるように感じる。
本当は食べたくないのだが、朝食を摂った形跡が無いと、口うるさい綺羅が苦言を呈してくる。一時期はトイレに流すなどして誤魔化していたが、偶然早めに帰ってきたシオンに運悪く見つかった際、その事実はあっという間に綺羅に報告され、小一時間説教された。説教と言っても、怒鳴り散らされたり手を挙げられたりするわけではない。静かな口調で淡々と、幼い子どもに諭すように言ってくる。朝食を食べないことが発覚するたびに、あんな精神的苦痛以外の何物でもない𠮟責をされてはかなわない。
それでもナギは、家の中で一人で食べることが嫌いだ。
大体、食べたくないものを無理に食べること自体が間違っている。どうしても食べさせたいのなら、ナギが朝食を食べる時間に帰ってこればいいではないか。
もちろん、それが物理的に不可能であることは、ナギも重々承知していた。だから、綺羅にそう言い返したこともない。仕事なのだから、仕方がない。
仕事だから。
ナギがまだ小学生だった頃、母親はよくそう言って朝帰りをしていた。最初のうちは本当に仕事だったのかもしれない。ナギが学校に行く直前に、疲れた顔をして帰宅し、申し訳なさそうに笑うスーツ姿の母親。それがいつからか、ナギが登校のため家を出る時間になっても帰らない日が増えた。仕事で遅くなったと言うが、朝帰宅する時刻が遅くなっているにも関わらず日に日に身なりに気を遣い美しくなっていく母親の姿を見て、何も察せないほどナギは馬鹿ではなかった。
父親は単身赴任であまり家に帰ってこなかったが、帰ってきたところで、母親と会話をしている姿をナギは見たことが無かった。久しぶりに三人で食事をすることになっても、父親と母親は一言も声を交わすことなく、義務的に食卓に並べられた母親の作る料理を食べた。どうしても言いたいことがある場合は、二人ともナギを通じてそれを言った。ナギ、お母さんに味が薄いから醤油を取ってくれと言ってくれ。ナギ、お父さんに醤油ぐらい自分で取れって言って。それが口論に発展しても、我が子を通じてしか会話をしない両親に愛想を尽かしたナギが、ある日「自分で言えば?」と言うと、父親も母親もナギを物凄い形相で睨み付けた。それ以来、両親と食事をすることはなくなった。
父親はますます単身赴任先から帰ってこなくなり、母親は夜のうちに帰ってこないのが当たり前になっていた。両親がまだ離婚をしないのは、ナギがいるからだろうなと考えながら、誰もいない実家で一人、コンビニの総菜を買ってきて食事をするのがナギの日課になった。
否、あれは食事ではなかった。しいて言うなら、餌。生きるためにどうしても必要なものを摂取しているに過ぎなかった。
一人で食事をすると、その頃のことを思い出す。リビングで一人だと、特に。
ナギは再びスプーンでシリアルを掬って口に運んだ。ザクザクという音が耳に響く。
今のナギには、HE★VENSがいる。彼らは本当に仕事で、今この場にいない。
彼らは、大勢で和気あいあいとするはずの場所にいながらも一人きりで食事をする空しさを知らない。
投薬をしたので、注射器と針を返却しに行く必要があった。それはナギへ薬を流通させている人物からの要望だった。不適切な投薬に加担し、違法に薬を横流しさせているのだから、この程度の警戒は当然なのだろう。その辺りに関しては素人であるナギに、下手なことをされて足を付けられたくないという考えは、ナギにも十分理解できた。だから、その指示に素直に従っている。
黙って待っていれば、昼前には皆帰ってくるだろう。瑛一とヴァンは、ナギが寂しがっていると思って、ケーキでも買ってくることだろう。彼らの中でナギはいつまでも中学生のままなのだ。しかし、寂しがっていたと思われるのが癪である。もうすぐナギも、デビュー当時の綺羅の年齢と同じになるというのに。全く寂しくなかったといえば嘘になるが、そこまでしてほしいほど子どもでもない。寂しくなんかないという意思表示として、一人で街に遊びに行ってしまおうか。
という複雑な心理をしているのだと、比較的年齢が近い瑛二とシオンは思ってくれるであろう。注射器を返却するために都心へ行くなら、今日だ。次の機会は、少し時間が空いてしまう。
その人物へ、電話をかける。注射器を返却し薬を受け取る度、教えられる番号は毎回違った。コール音を三回聞いたら通話を切る。これで、待ち合わせの場所に行けば、取引をすることができる。金は手渡し。驚くべきことに、そこまで法外な値段ではない。せいぜいが、実家への仕送りレベルの額だった。あちらとしても、隠せるレベルの金額で済ませたいのかもしれないが、深く尋ねたことは無い。あくまで悪いことをしているのだから、何も知らない方が良いことも多い。
部屋に戻って、今朝使用した注射器を入れたケースを鞄に入れる。髪の色を隠すために帽子をかぶる。若者の街に出れば、ナギの髪色程度の人間がゴロゴロいるため、あまり気にすることもないのだが、郊外である最寄り駅から電車に乗るとなると、やはり人目に付くからだ。顔は最近流行りのサングラスで隠す。流石のナギも、決して無名ではないアイドルが一人で堂々と歩くというのは、少し憚られた。しかし、あまり隠しすぎるといかにも怪しい人になってしまうため、マスクは省略。この程度の変装で十分だろう。
最後に、外に遊びに出ている旨を記した置手紙をする。こうして全ての準備を終えたナギは家を出た。