特別な人
思った通りだ、とナギは小さく息を吐いた。黄金の瞳はナギを見下ろしたまま逸らさず、ナギの溜息を見つめていた。
「綺羅はいつもボクを迎えにきてくれるよね」
ナギの言葉に綺羅は肯定も否定もせず、ほんの少し目を細めた。そのまま何も言わず、ナギの分の傘を差し出す。反応の乏しい綺羅にナギは若干の苛立ちを覚えた。差し出された傘にちらりと目をやり、受け取ることはせず再び綺羅の瞳に視線を戻す。
「昨晩も収録だったんでしょ。疲れてるんじゃない? それなのに勝手に遊びに行ったボクをわざわざ迎えにきて……雨が止むまで放っておけばいいじゃん。ボクももうそんな子どもでもないんだから」
呆れたような口調で、綺羅の顔を見上げる。
「どうして? どうして迎えに来てくれるの?」
綺羅が目を伏せる。考え込むように瞳を泳がせる。ナギの問いに最も適した返答をするための言葉を探しているようだ。その場に立ち尽くしたまま、悩まし気に何度か瞬きをして、綺羅はようやく口を開いた。
「ナギは……HE★VENSの大切な、仲間だ。だから、放っておくことは……できない」
綺羅にとってナギが、HE★VENSのかけがえのない大切な仲間だから。
優等生のような模範的な回答に、ナギは口を歪めた。綺羅の揺ぎ無い実直さには反吐が出る。甘く優しく正しくて、本当に吐きそうだ。同時に、悪意のない綺羅の言葉すら素直に受け取ることが出来ないほど、自分自身の価値に対する余裕が失われているのかと気づく。
ナギは深く深く溜息を吐き、はは、と小さく笑った。乾いた声が湿った空気に溶け込んだ。
「もしもナギがHE★VENSじゃなかったら、綺羅は迎えに来てくれないんだよね」
ナギの言葉の意味を図りかねたのか、綺羅は沈黙した。それでも何かを言おうと唇を開いては、躊躇って閉じるということを繰り返す。
「だって、そういうことでしょ」
言いながらナギは立ち上がり、綺羅と向かい合った。灰色がかった瞳がギラつき、綺羅を睨み付ける。
「頭脳明晰、容姿端麗、おまけに歌とダンスも上手い。アイドルであろうとなかろうと、ボク自身は何も違わないのに、みんなが優しくしてくれているのは、ボクがHE★VENSの一員だからでしょ」
もしも今この瞬間にHE★VENSという肩書を喪失したとしたら、ナギにはこうして迎えに来る人もいなくなるのだろう。HE★VENSの帝ナギとしての価値を失った時、ただの帝ナギを特別大切にしてくれる人がいるのだろうか。既に可愛さという最強の武器を失った時、何もない帝ナギを。ありのままの帝ナギという存在そのものを。
世間を見る限り、とてもいるとは思えなかった。ナギは超一流のアイドルである姿を求められている。それはHE★VENSのメンバーから見ても同様だろう。アイドルとして活躍するナギを必要としている。そしてナギがその期待以上の物を持っているから、ナギはHE★VENSでいられる。
ナギにはHE★VENS以外の居場所が無い。
「違う?」
「……ナギが、HE★VENSでなければ……出会うことも、なかった」
綺羅が言う。これもまた正論。全く以てその通りである。
正論だけれど、違う。
HE★VENSはナギの居場所であり、同時に肩書となった。HE★VENSではない帝ナギなどという存在は、この世界から消え去ってしまった。それがとてつもなく恐ろしい。
「ナギはナギ。それでも、皆はHE★VENSの一員のナギとしてボクを見る」
「……」
「家族だって、学校の奴らだって、みんなそう……」
帝ナギは確かにここにいるというのに。どうして誰も本質を見てくれないのだろう。
家族とも、学校という場とも、距離を置いて久しい。だからアイドルではないナギをよく知る人間などいない。だから自分自身を見失ってしまいそうになる。
もしもナギがナギを見失わないように、ナギを繋ぎ留めてくれる存在があるのならば、一番近くにいてほしいと思った。
例えばこんな風に、雨の日に自分を無条件に迎えに来てくれるような。アイドルでなくとも、可愛くなくとも、ただ帝ナギという人間であるというだけで、特別に思ってくれるような。そんな存在が欲しいのだ。
その瞬間、ナギは息を飲んだ。
具体的に己の欲するものが分かった途端に、頭が一気に冴えたような心地になった。体は呼吸の仕方を思い出したように、深く酸素を取り込んだ。久しぶりに新鮮な空気が肺を満たし、近頃ナギの胸に滞っていたどす黒い闇の渦が一掃される。
「ボクは、誰かの特別な人間になりたかったのか」
掴みどころのなかった漠然とした不安や恐怖の実態を自覚したならば、解決への糸口は見つかったも同然だった。元々頭の回転は速いナギである。案の定、それはすぐに明瞭になった。
「ねぇ綺羅。ナギの恋人になってよ」
ナギははっきりとした声で言った。
突然のナギの発言に、綺羅が目を見張る。ナギが潜思の途中の言葉を全て割愛したため、思考回路についていけていないのだ。綺羅は動揺したように瞬きをして、ナギを凝視した。その満月のような瞳を、ナギも真っ直ぐに見つめ返す。
「……なぜ、急に」
「誰かの特別になるには、それが一番手っ取り早いでしょ」
答えになっていない、とでも言うように綺羅の眉が八の字になり眉間に皴が寄る。明らかな困惑の表情。しかしそんな綺羅を物ともせずナギは言葉を続ける。
「綺羅の特別になりたい」
「……だが」
「なってくれないと帰らないから」
綺羅の瞳を、ナギは鋭い眼差しで凝視した。
叩きつけるような豪雨の中、大きなビニール傘を差したまま、綺羅は沈黙した。目を伏せて、軽く下唇を噛む。瞳を揺らし、何度も瞬きをする。そうして散々悩んだ挙句、最終的に綺羅は「わかった」と短く答えた。ざあざあと古びたテレビの砂嵐のような雨の音にかき消されそうなほど、小さく掠れた声だった。
「だから……一緒に、帰ろう」
まるでナギを帰宅させるために仕方なく了承したかのような綺羅の物言い。少しばかり不満であるが、ナギは綺羅がこのように答えるということは、何となく分かっていた。綺羅は以前からそういうところがあった。ナギが強く出れば、全てナギのせいだと言える状況になれば、綺羅は決してナギの要求を拒まなかった。
恋人同士になったところで、特に心が晴れやかになるでもなく、ナギは綺羅に手を引かれて家に帰った。恋人と手をつないでいるというのに、まるで親子のようだとナギは思った。小説に書いてあったように、心臓が激しく脈打つわけでもなく、映画で見たように、お互いに照れた顔をするわけでもない。綺羅は相変わらず表情を動かさないし、ナギの方を見ることすらしない。しかし、綺羅の大きな手は、決して離すまいという強い意志を感じるほどに、しっかりとナギの手を握っていた。