特別な人
ナギが駅のホームに着くと、運が良いことに丁度到着した電車があった。それに乗って、都心に出る。ラッシュの時間でなくてもこれだけ多くの人間が電車に乗っている東京は異常だ。その異常にも、随分と慣れた。自分と同じくらいの若者が多くいる駅を降りて、人の流れに沿って改札を出る。
この時間はまだ、街の通りに並ぶほとんどの店が閉まっている。開店準備のために慌ただしく動いている人間がいる建物もあれば、開店時間が昼前であるため未だ閑散としている店もある。その中で、喫茶店とコンビニエンスストアは当然のように店を開けていた。客も大して居ない時間だろうにご苦労なことだなと思いながら、ナギは大通りから外れた細い道に入る。突き当りの、建物の地下へ向かう階段を降りて、レトロな喫茶店の扉を開けた。カランカラン、と音が鳴る。
「いらっしゃいませ。何名様でしょうか?」
「先に連れが来てると思うんですけど」
ナギが言うと、店員は快く店の奥にある座席に案内した。四人掛けの席に一人、コーヒーを片手に文庫本を読んでいる中年男性の姿。「おはよう、おじさん」とナギが声をかけると、男は顔を上げて、ニッと笑ってみせた。笑顔を向けられたので、ナギも愛想笑いをしてみせる。案内してくれた店員にミルクティーを注文し、男の向かい側の椅子に座った。
「今日も会えてよかった。ほら、頼まれてたやつだ」
「ありがとう。ボクからも、これ」
本が一冊入っていそうな大きさの紙袋を交換する。これで用事自体は終わりなのだが、それだけで済ませるわけにはいかない。一応ナギの中では、この男は親戚の中で比較的親しい叔父で、こうして稀に本の貸し借りをしている関係、という設定で会っている。男側にもそう伝えている。だから男はいつでも、文庫本を読んでナギを待っているらしい。安直すぎる、と言っても男は、安直すぎるくらいが丁度いい、と言って聞く耳を持たなかったため、ナギは毎回この茶番を見る羽目になっている。
しばらくすると、店員がミルクティーと伝票を持って来た。軽く会釈をするナギと、コーヒーカップを口に運ぶ男。店員が席を離れ、近くにナギ以外の人間が居なくなったことを確認して、男はカップをソーサーに置いた。
「……いつまで続けるつもりだ」
カップに視線を落としたまま、男が静かに口を開く。ポットに入った紅茶をカップに注ぎながら、ナギはちらりと目線を男の方へやった。
「いつまでだろうね。でも、限界までやる」
「限界はそう遠くない」
容赦なく言い放たれる台詞。ナギはバツの悪そうな顔をして、ポットをテーブルに置いた。紅茶の入ったカップに牛乳を注ぐ。
「年を重ねるにつれ、効きは悪くなる一方だ。量を増やすだけではどうにもならない。そいつを忘れないでほしい」
初めて取引をした時もそんなことを言っていたなとナギは思った。薬を使ったとしても、ナギの若さは永遠ではない、それを肝に銘じた上で使用しろと言われたのだ。
分かっている。ああ、分かっているとも。
紅茶の中で広がる牛乳のように、ナギの心に不快感が渦巻く。それを誤魔化すように、ティースプーンでカップの中身をかき混ぜる。
「どうして今更またそんなこと言うの? ボクを心配してくれてるの?」
「そうだ」
「嘘。おじさんはそんな人じゃない」
ナギの率直な物言いに、男はクククッと喉を鳴らすようにして笑った。しかしすぐにその笑みは消え去り、不気味なほどの無表情になる。この表情の変化や多様さが、目の前の男がただの一般人ではなく、裏社会の人間なのだなとナギに思わせる。本当の顔が見えない。今現在この男は、どんな表情でナギを見据えているのか。
取引をする以上、この男より優位に立つことはできなくとも、最低限対等に限りなく近い関係でいたい。違法取引はそもそもが買う側が圧倒的に弱い立場なのだ。だからせめて、少しでも相手側の事情を把握しておきたい。ついでに言えば、ナギに対して適当な虚言は通用しないと思わせておきたい。
「探られている」
コーヒーカップを手に伸ばしながら男は言った。
「お前さんと出会ってからも、今まで何度も探りを入れられそうになったことはあったが、なんとか躱してきた。だが今回のは、ちとしつこい。こうやって今まで通り提供することが難しくなるかもしれん」
残り少ないコーヒーを流し込む。追われているというのに、随分と余裕がある。摘発される危険性について厄介だと思ってはいるのだろうが、実際何てことないとでも言うような軽い口調だ。ナギは蛇のように目を細めた。
この男が万が一にも検挙されるようなことがあったら、自分はどうなるのだろうか。間違いなく無事では済まない。
「悪いが俺は、ヤバくなったらお前との取引をぶった切って逃げる。今までもそうしてきたから、俺は捕まっていないんだ。分かるな?」
いざという時のこの男の逃げ方をあらかじめ知ることができやしないだろうかと思索していたが、思いがけず男が緊急時に己の取る行動を明言したのでナギは拍子抜けした。男が出鱈目を言っているようには見えなかった。ナギを見捨てて消息を絶つ。これ以上に単純明快な話もない。とりあえず、こちらに面倒事を擦り付けて逃走するつもりが無いようで、ナギはほんの少し安心した。
「それを使えなくなった時のことを、今からでも考えておいた方がいい。ある日突然、俺と音信不通になる可能性も十二分にある」
はいはい、とナギが返事をすると、男はすっくと席を立った。どうやら今日のところはこれでお開きらしい。ナギは荷物を全て持って、化粧室へ向かった。その間に男がナギの分の勘定も済ませてくれるはずだ。
男はナギに店を出入りする姿を決して見せない。だからナギが化粧室を出るころには、いつも通り店内に男の姿は無かった。
古着屋にでも行こうと道を歩く。店内にいた時間は数十分程度であったのだが、大通りに出ると既に街は随分と賑わっていた。しかしまだ奇抜な髪色の人間は少ない。鞄から帽子を取り出し、深く被る。サングラスもしようかと思ったが、服飾店は薄暗いところが多いので、かけないことにした。
芸能界で活動していて、しかもHE★VENSのメンバーに囲まれて日々過ごしているとあまり実感がないが、ナギは少年のような容姿に相反して、纏っている雰囲気が相当大人びているらしい。街に出るとそれを強く実感する。薬の効果もあって同年代に比べて相当な童顔だが、ふとした時の表情がHE★VENSの他の大人たちによく似てきた。それは容赦なく降り注ぐ様々な困難や無理難題、そして理不尽に立ち向かってきたからこそのものだ。親元を離れ芸能界に飛び込み、そして二度も芸能界追放の危機に瀕しながらもそれを乗り越えて、五年以上も仕事をしてきた。その経験が今のナギを形作っている。
(パッと見、結構年齢不詳になってきたな)
それは外見と内面の年齢の剝離によるものなのだろうか。
試着室の鏡に映る自分の姿を見つめながら、ふとそんなことを考える。
どの角度から見ても、完璧な帝ナギの姿。デビュー当時の十三歳から既に完成されていた容姿は、その後一切の衰えを見せることなく、今日までその愛らしさを保ち続けている。今年で十八歳だと言えばその年齢に見えるが、言われなければきっと十五歳未満にも見える。それは薬の影響によるものだけではない。HE★VENSの最年少として甘やかされている環境と、仕事に対する並々ならぬプロ意識と、その他諸々の要因のせいだ。帝ナギというアイドルは非常に多くの顔を持っていて、そしてナギ自身はそれらの顔を巧みに使い分けることができる。
だから、ありのままの姿の帝ナギは、こんなにも――
「お客様、いかがですか?」
カーテンの向こう側から声がして、瞬時に意識が現実へ戻る。こじんまりとした店内の試着室の中で長居するわけにはいかない。店員に対してすかさず返事をするナギ。
「ちょっとサイズが合わなかったみたいです」
嘘だ。レディースのフリーサイズで、ゆったりとしたシルエットであるから、ナギは十二分にそれを履きこなすことができていた。
けれど、何かが違うと、そう思った。
これはナギが追い求めている帝ナギの在るべき姿ではないのだと。
元々の服に着替え直し、帽子を被り直す。カーテンを開け、試着したものを店員へ手渡す。軽く会釈だけをして、ナギは結局何も購入しないまま店を出た。
自分自身の魅力というものは、時の流れと共に変化していくものである。すべては刹那的で、恒久的なものではない。だからこそ、見極めが重要だ。己を理解し、分析し、その時々の魅力を磨き上げる。しかしそれは同時に、過去の魅力を削り取る所業でもある。変わらないためには、変わり続けなくてはならない。一流のアイドルであり続けるためには、必要なことだ。
日々、変化し続けている。何が自分を自分たらしめているのか。