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特別な人

綺羅も積極的にナギと性交をしたいわけではあるまい。ただ、恋人という関係になった以上はその責務を果たすべきであると考えているのかもしれない。きっと寝る前の口づけもそうなのだろう。綺羅はナギに恋愛感情や欲情を抱いているというよりは、綺羅の中の恋人像を遂行しようとしているだけに違いない。恋人にならないと家に帰らないと言って、半ば無理やり恋人関係を結ばせたのだから、その程度の感情がむしろ自然だろう。しかし、そんな状況下においてもどこまでも拒むことをしない綺羅は、ナギから見て少々気味の悪さすら感じる。
 綺羅はナギに甘い。
「綺羅はさ」
 布団の中で丸くなったまま、背後の綺羅に声をかける。返事はないが、声は聞こえているはずだ。背中で感じる呼吸からして、綺羅もまだ眠っていないのだろう。じっと黙ってこちらに耳を傾けていることがわかる。
「ナギが殺してっていったら、ナギを殺してくれる?」
「……」
 綺羅が寝返りを打ってナギの方へ身体を向ける音がした。質問の意味が分からないとでも言うような沈黙。
「ナギは、死にたいのか?」
「死にたい訳じゃないんだけどね」
 布団を巻き込むようにして身体を更に丸くする。余計なことを言っただろうかとも思ったが、綺羅は意外にもそれ以上の詮索をしなかった。ただただナギの言葉の続きを待っているようで、じっと押し黙っている。ナギは初めて、綺羅が無口でよかったと思った。
 独り言のような吐露。今の綺羅になら、何を投げつけても許される気がする。
「ナギはいつまでアイドルをやっていられるのかなって、よく考えちゃう」
 商品価値、という言葉が脳裏によぎる。この身はレイジングエンターテイメントの商品だ。売れるものだけが残されていく。この場合の売れるというのは、多くの人間に応援されているということ。例えばエンジェル。
 エンジェルたちを狂わせる程に魅了してきた自負はある。しかしそれが恒久的なものである保証はどこにもない。
「……ナギは、HE★VENSだ」
「うん、分かってる」
「ナギが、いなく、なったら……HE★VENSじゃ、なくなる」
「そうだね」
「……一緒に、音楽が、したい」
「ねえ、ナギたちは音楽家じゃないんだよ」
 意図せず、少し苛立ったような声になる。ナギは横たわったまま体勢を変え、綺羅に向かい合った。鈍色の大きな瞳が、満月の瞳と対峙する。
「ナギたちはね、アイドルなの。キラキラ輝いてて、エンジェルたちに夢と希望を与える宿命があるの。ただ素晴らしい音楽を奏でてるだけじゃダメなの」
 棘のある口調で言い切るナギの姿を、綺羅はじっと見つめた。否定するでもなく、肯定するでもない。ただただ、ナギの言葉を受け止める。その態度が、ナギの癇に障った。ナギの悩みを、些細なことだとでも思っているのだろうか。何を下らないことで悩んでいるのだと思っているだろうか。いつでもブレの無い綺羅を見ていると、自分がまるで相手にされてないように感じる。
 ナギは溜息を吐いた。
 静寂。しばらくして綺羅の分厚くて大きな手が、恐る恐るナギの頭を撫でた。長くて骨太な男の指が、ナギの柔らかくて細い髪を梳く。幼い子どもを宥めるときのような所作。
「ナギは、いつも……キラキラ、している」
「当然でしょ。ナギは宇宙一可愛いんだから」
「……だったら」
「宇宙一可愛いから、キラキラしてるの」
 頭に添えられている手を除けるように綺羅の手首を掴んだナギは、そのまま顔を埋めるように綺羅の手の甲に額を当てた。温かい。
「ボクの可愛いは、いつまで持つんだろう」
 目を伏せた拍子に、ナギの長い睫毛が綺羅の皮膚に触れた。瞬きをするだけで、綺羅の手の甲を擽る。それでも綺羅は無反応で。どこまでもナギとの会話において受け身な態度が、かえってナギの中で異様な存在感を放っている。しかし今はそれがありがたいと思った。こんな夜は、一人きりで枕を濡らしていたかもしれない。
「大人になりたくない」
 己の発した声が、細い息となって消えていく。
「身体が成長したら、可愛くなくなっちゃうもん」
「……俺は」
 綺羅は手の甲でナギの額を撫でるように人差し指で髪をかき分け、そのまま耳まで指を沿わせた。伏せられている大きな目と長い睫毛が露わになる。ゆっくりと綺羅の方を見上げる宝石のような瞳を映した綺羅の視線が、天使のように白く柔らかな肌へと、そして薄紅色の唇へと移される。
「ナギに、成長期が来て……身長が、今よりも、伸びたら……キスが、しやすくなるなと、思う」
「綺羅はなんにも分かってないよ」
ほんの少し下唇を噛んで、眉根を寄せるナギ。
「綺羅と違って、ボクは可愛くてキュートで売ってるんだから」
 ナギの言葉に綺羅は言い返すことをせず、唇を固く閉ざして押し黙った。
 遠くで、車が通り過ぎる音が聞こえた。そんな音が耳に届くほど、静かな夜なのだと気が付いた。他のメンバーたちもすっかり寝静まっているか、あるいは眠っているメンバーに気を使いながら活動をしているのか。いずれにしても、目の前にいる綺羅はこの夜の静寂に溶け込んでいながらも、金色の瞳でナギを見つめていた。ゆっくりと瞬き。そしてもう一度。何かを言おうとして、しかし言葉が上手くまとまらないらしい。目は口程に物を言うとは言い当て妙だ。綺羅はその無口さを補ってなお余りある程に、瞳の挙動が分かりやすい。
しばらくして、ナギの眉間の皺を伸ばすように綺羅の親指が押し付けられた。
「ナギ」
「何」
「好きだ」
「……急に何」
「俺は、ナギを、愛して、いる」
「そういうのさ」
 もはやここまでくると、呆れの感情しか生まれない。綺羅の手首を掴む。綺羅の手を押し除ける。そのまま綺羅に背を向けるように寝返りを打ちながら、ナギは言葉を続けた。
「何の脈絡もなく言うとわざとらしいからやめたほうがいいよ」
「……」
 背後から腕が伸ばされてきて、大きな手がナギの手に重ねられた。指を絡めるように、軽く握り締められる。緩い抱擁をしながらナギの後頭部に頭を埋めた綺羅が「でも、本当のことだ」と言ったような気がしたが、聞こえなかったことにした。

 恋人同士という関係になってからというもの、綺羅は事あるごとにナギに口付けをした。おはようのキス、いってきますのキス、ただいまのキス。流石に他のメンバーがいる場所で堂々とすることは無かったが、物陰があるときはそこで隠れてキスをしてきた。綺羅は恋人への愛が重そうな人間だとは薄々勘付いてはいたが、まさかここまでとは想定外である。しかしこちらから言い出した関係であるため、拒むのもなんとなくおかしい気がして、ナギはその接吻に応じた。
 綺羅はナギとの恋人としての交際を、メンバーたちに話してはいないらしかった。それをナギは当然であると思った。暴露すれば、面倒なことになるというのは火を見るよりも明らかだった。
 秘密の交際。なんと甘美な響き。
 同じ屋根の下で共同生活を送っているのは、自分たちだけではないのに。他の人間の目から隠れて唇を重ねるたびに、共有している秘密が大きく膨れ上がっていく。
 この行為自体は形骸的なものかもしれないが、ナギが口付けを許しているのは綺羅だけであるし、綺羅の方もきっとそうなのだと信じている。その関係性をお互いが積極的に築いているという事実に、ナギは充実感を覚えた。
 同時に、綺羅のまるで繊細なガラス細工に口づけるようなそれに、ナギは素直に興奮した。
 エンジェルたちの中で頻繁に言われている『HE★VENSの末っ子』とは言い当て妙で、ナギは現在もメンバーの中で過剰に子ども扱いされることが多い。それを不満に思うことも少なくはないけれど、逆にそれで得られる利益も多々あるからこそ、ナギは自分自身のそういった立場を受け入れているし利用している。現にナギはメンバーの中で唯一の未成年であるし、法的にもまだまだ子どもであるといえる。
 だから、あまりにもナギを大人扱いした綺羅の接吻は、ナギにとって思いがけないものであった。リップクリームのみの簡素さではあるが手入れされた肉厚な唇が、吐息すら飲み込んで、ゆっくりと押し付けられる。ほんの少し口が閉じられたかと思えば、ナギの唇の先を啄むように甘噛みする。軽くナギの唇を弄びそして最後に必ずもう一度唇を押し当てて、綺羅はナギの様子を窺うような視線を向けた。綺羅は恋人に対してこのようなキスをするのかと考えただけで、何となく愉快な気持ちになった。
 最近、肌の調子が良い気がする。綺羅とキスをするようになったこととの因果関係は不明であるが、喜ばしいことだ。

 

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