特別な人
2
「ナギ」
就寝のために部屋へ戻ろうと、ナギが自室の扉に手をかけたところで、綺羅が声をかけてきた。風呂上りらしい。ヨレたTシャツと毛玉だらけのスウェットを身に着けている。癖のある黒髪はまだ湿っていた。
「……何?」
「……」
綺羅は無言でナギの傍に立ち、じっとナギを見下ろした。
沈黙。綺羅はゆっくりと瞬きをした。黄金の瞳が揺れている。ナギも黙って綺羅の動向の一部始終を見つめる。
やがて、綺羅はナギの頭にそっと手を乗せた。そのまま後頭部に向けて髪を撫でるように手を沿わせる。長身の彼は必然的に屈む姿勢になり、その腕でナギを抱きしめた。
「……え、本当に何?」
「……おや、すみ」
歯切れの悪い、静かな低音での囁き。直後、ナギは頬に柔らかく温かいものが押し付けられる感触を覚えた。ちゅ、と小さな音を立てて綺羅の顔が離れる。面食らった表情のナギを、あまりにも真っ直ぐな瞳で見つめ、綺羅はもう一度ナギを抱擁した。
仕方がないので、ナギは綺羅の胸板に頬を押し付けた。布越しに綺羅の体温を感じる。綺羅の心臓の音が聞こえる。鍛え上げられた彼の身体は固くて、触れていて気持ちの良いものでもない。なんとも言葉にし難い感覚だ。
そうしているうちに綺羅は腕の力を緩め、ナギを解放した。囁くような声で「良い夢を」と言い残し、ナギへ背を向けその場を立ち去ろうとする。
「待って。綺羅、待って」
訳が分からなくて、ナギは思わず呼び止めた。振り返った綺羅の腕を強く引き、身体を強制的にナギの方へ向かせる。
「今の何?」
「……寝る前の、キス」
「は?」
「……恋人、だから」
「……あっそ」
呆れたようにナギが言うと、綺羅は黙って頷いた。どうやら本当にそれだけの理由らしい。
こんなことのためだけに呼び止めるなんて。
どうやらナギが予想していたよりもずっと、綺羅は恋人になるという要求を真摯に重く受け止めていたらしい。なんとも奇妙な心持になる。しかし同時に、ならばもっと我儘を言っても許されるのではないかという期待の感情が沸いた。
「ねえ」
「……」
「一緒に寝ない?」
金色の瞳を見上げながら言う。
ナギの言葉に綺羅が熟考し、沈黙が生まれた。目を伏せるような瞬きが二、三度行われた。分厚い唇は固く閉ざされ、表情はほんの少しも動かなかった。
奇妙な間であった。まるで綺羅の考えていることの読み取れない無音の時間。ナギはそれを辛抱強く待った。迷っている時の綺羅が普段以上に言葉を発さなくなるのはいつものことであるし、こうも長年共に活動していれば、この程度の静寂など慣れたものだ。しかしそれを加味しても、目の前にいる綺羅が生み出している沈黙は奇異であった。綺羅が何故迷っているのか理解できないナギが、小さく息を吐く。その姿を見た綺羅が、喉仏を動かして唾を飲み込む音。
やがて綺羅は、ゆっくりと唇を開いた。
「……髪を……乾かしてくる」
その返事で、肯定だと分かった。
一人分のベッドの上に背中合わせで横になる。少し狭い。ナギが狭いと感じているくらいだから、身体の大きな綺羅はもっと狭いと思っているかもしれない。それでも文句のひとつも吐かずにナギの布団の中で丸くなっている。
恋人だからだろうか。
綺羅の本心など知らない。分からないといった方が適切かもしれない。少なくとも綺羅はナギのことは嫌いではないだろうし、むしろ好いていると思う。何の前触れもなしに突然恋人になれと言って、首を縦に振って貰える程度には綺羅に好かれている。
「ねえ」
背を向けたまま声をかける。
「綺羅はさ、ナギの恋人だよね」
「……ああ」
「エッチしよって言ったら、してくれる?」
「……」
「……」
「……」
「……何で黙るの」
「……どっちが下になるべきか、考えて、いた」
「ボク絶対、突っ込まれる側なんて嫌だからね」
「……なら、俺か……」
「してくれるんだ」
へえ、とナギは心の中で思った。さも当然のように性交を了承するような台詞を言ってくることを、意外に思った。
「恋人、だから」
「……ふーん」
恋人だからしてくれるのか。だとしたら、昨日までの恋人ではないただのHE★VENSの仲間の関係のままでは、してくれなかったのか。なんて義務的なのだろう。潔いというか、なんというか。ナギとの関係は綺羅の中で、様々な面において割り切っているようにも感じる。
嫌なら拒めばいいのにと、言おうとしたところで背後の綺羅が動く音がした。身を丸めて布団を深く被るように潜り込んだらしい。この話は終わりだとでも言うような態度である。ナギは綺羅に背を向けたまま、小さく息を吐いた。