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特別な人

「あれ、帝ナギじゃない?」

 フードコートで食事中に、ナギの斜め後ろの席に座る二人組の女の片方がそう言うのを聞いた。それでも声を潜めているつもりなのだろうか。

「嘘、ナギくん!?」

 声が大きい。ナギは心の中で溜息を吐いた。

 人差し指を立てて、唇に当てる。しーっ、という動作と共に軽くウインク。はっと息を飲むエンジェルに、小悪魔のような笑顔を向け、ナギは席を立った。食事を終えたトレーを持ち、そそくさと足早にその場を離れるようにして返却口の方へ持っていく。ゴミを分別させながら聞き耳を立てると「本物も可愛かったね」「うんうん、あんなにあざといのが様になるのって、最近だとナギくんくらいしかいないよね」という会話が背後で繰り広げられていた。

 そう、帝ナギは可愛い。

 それも、天然でも可愛い上に、あざとく狙ったとしてもその魅力が潰えることなく可愛い。

 そのことを一番よく理解しているのは、ナギ自身だ。これは世の中で生き抜くための強力な武器となった。アイドル業界には顔の良い男たちが数多くいる。特にHE★VENSは精鋭揃いだ。他のメンバーの輝きに引けを取ってはならない。だからナギは可愛さという差別化を図った。思惑通りナギの天性の可愛さは、数多くのエンジェルたちを魅了し、結果的にその地位を揺るがぬものとしている。

 仮にその可愛さが失われたとて、生まれながらに整った顔立ちは並の人間とは比べ物にならないことは明らかだ。しかしナギが渡り合っていくのは並の人間たちではない。アイドル戦国時代とはよく言ったものだ。アイドルグループの競争は日々激化している。そしてHE★VENSはST☆RISHやQUARTET NIGHTと共に、その第一線にいる。日本中を、世界中を熱狂の渦に巻き込むアイドルグループの一員として、何よりHE★VENSの名に恥じぬアイドルとして、ナギは煌めきを失う訳にはいかない。

 しかし、いつかこの可愛さが失われた時、ナギは今までのナギと同じ煌めきを放ち続けることができるのだろうか。

 現時点での己の可愛さに疑いは抱いていない。ただ漠然とした形容しがたい不安が、背後から忍び寄っているような気がする。

 そんな胸の内を少しも漏らすことのないよう細心の注意を払って、堂々とした足取りで店を出る。空を見上げると雨が降りそうだった。そう思ってすぐに、ポツリと水滴が落下してくるのを感じた。不安は的中した。

 生憎、傘を持ってきていなかった。コンビニエンスストアにでも寄って購入しようかと考えたところで、ふと思いとどまる。時間的に他のメンバーたちの収録は終わっていると推測された。スマートフォンを取り出し、メッセージアプリを開く。少しだけ考えて、

『迎えに来て』

と、それだけ送って画面を閉じた。

 ビルが立ち並ぶ都会の緑のオアシスだなんて言うけれど。公園にはナギ以外の人間は見当たらなかった。

 ぽつり、ぽつり。

 雨粒の落ちてくる感覚が徐々に短くなる。遠くの目に映る人間たちも、続々と建物の中に避難していった。

 冷たい雨がナギを打つ。思えば、気温が先ほどまでに比べてぐっと下がっている。このままでは風邪をひいてしまうかもしれない。しかし温かい建物の中に入る気にはなれなかった。多くの一般人の目に触れる場所に行きたくなかった。

 仕方がないので、公園内の屋根のあるベンチで雨宿りをすることにする。これ以上濡れる訳にもいかない。ベンチに腰掛け、膝の上に置いた自分の手が目に入る。昔に比べて、骨ばって大きくなった手。指輪のサイズも変わった。

 この可愛いはいつまで保つのか。

 骨格が、肉付きが、肌質が、大人の男へと変化していく。

 それは帝ナギの劣化に他ならない。

 アイドルは、存在そのものが商品だ。劣化した商品など、誰が必要とするだろうか。必要とする人が減れば、それだけ商品価値は下がり、金にならなくなる。新人でもないのだから、稼ぎにならないなど、アイドルとして恥以外の何物でもないどころか、存在している意味がない。

(でも、アイドルじゃなかったら、顔が可愛くても存在している意味は無かった、かも)

 そういう意味では、現在のナギの存在意義はアイドルとして活躍することと同義である。そのアイドル界で、可愛いという武器でここまで戦ってきた。だからこそ、その武器を手放すのが怖い。

 そうか、自分は怖いのだ。可愛さが身を潜めたナギを、世の人々がどのように見るのか、考えただけで恐ろしくてたまらないのだ。

 雨は次第に激しくなり、勢いよくアスファルトに叩きつけられては人々に営みの音を掻き消していく。飛沫で白く霞みがかった世界に、たった一人で取り残されたようだとナギは思った。実際はこの誰もいない場所まで歩いてきたのはナギ自身だ。取り残されたのではなく違う道を選んだだけ。そして自分一人では引き返すことができない場所まで来てしまっただけ。どちらにせよ雨の中この場所から見える景色は同じで、随分と寂しく冷たい世界だ。

 ぴしゃり。ぴしゃり。土砂降りの雑音の中、ゆっくりとした一定のテンポで濡れた地面を踏み込む音がする。音は背後から近づいてきて、ナギの真後ろで止まった。

「ナギ」

 独特の間を置いて発せられた、静かな低音。聞き慣れた声にナギがゆっくりと振り返ると、声の主が傘をさして立っていた。

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