天に届け贖罪
ピアノの鍵盤と鍵盤の間の隙間に、ひとつ、ひとつ、剃刀の刃を差し込んでいく。白と黒の並ぶ中に、灰色がかった金属光沢。全ての刃を差し終えたところで、綺羅はその長い指を鍵盤に沿わせた。おもむろに曲を弾き始める。ヨハン・ゼバスティアン・バッハのインベンション第4番ニ短調。まだピアノという楽器が存在しなかった頃の楽曲だ。ピアノと違って音の強弱がつけられない、チェンバロという鍵盤楽器のための曲。
クラシック音楽とは、再現の音楽だ。バッハがどのような音をイメージしてこの曲を生み出したのか。神に、何を伝えたかったのか。音楽を記録する手段が楽譜しか存在しなかった時代、音楽は演奏家を通じて継承されていった。作曲者の理想とする音楽的表現に己の感覚全てをシンクロさせ、バロック時代の音楽を現代に再現させる。クラシック音楽を奏でる人間には、その責務がある。
それが、神聖ローマ帝国であっても、この極東の島国であっても、変わらない。
だからこの曲は、皇綺羅という人物を一切消し去った演奏にしなければならない。
単調に、正確に、無機質に、しかし厳かに、神を讃え、神に祈りを捧げるように。己の中にある余計な感情表現を消し去り、教会の中で大いなる何かと向き合うように。
左手の薬指に、ピリッとした痛みが走った。表情が僅かに歪む。綺羅は思わず演奏を止めた。
ミスタッチだ。白鍵と黒鍵の間の刃が、薬指の小指側の側面を切ったのだろう。真っ赤な直線から鮮血が滲む。じわじわと太くなる赤線をぼんやりと見つめ、綺羅は舌で傷口を舐めとった。ちゅう、と音を立てて血を吸うと、ほんのり鉄の味がした。
ピアノ演奏において、ミスタッチはご法度だ。つまりは弾き損じなのだから、本来あるべき音楽を奏でられていないということになる。綺羅が剃刀の刃を鍵盤の間に差し込んだまま演奏するのは、それを無くすための訓練だ。
指先の舐めた部位の唾液をハンカチ拭き取り、綺羅は最初から再び演奏を始める。鍵盤と指先の骨が共鳴する度、傷が若干の痛みを脳へ伝える。それが小さな邪念となり、音に強弱がつくようになった。
ああ、このままではいけない。バッハの曲ではなくなってしまう。
小さな感情の動揺が、大きな渦となり、綺羅を飲み込む。再びミスタッチ。今度は右手の中指だった。先ほどよりも深く切ったらしい。鈍い痛みが神経を駆け抜ける。
痛みは神経を覚醒させ、同時に集中を遠のかせた。ここで音楽を止めてはならない、綺羅は瞬時にそう感じた。今ここで止めれば、音楽が神へ届かないと察した。下唇を噛みしめ、食いつくように演奏を続ける。これはもはや、教会で神に捧げるバッハの曲ではなく、HE★VENS皇綺羅による贖罪のための演奏。
神は俺を許すだろうか。
幼いころから嗜んでいるピアノでさえ、こんなにもミスタッチを繰り返すほどの実力だ。音楽の才能に恵まれている訳でもないというのに。親族の期待と願望を全て切り捨て、音楽の世界に飛び込んだ。そのせいで、数多の人間を悲しみや混乱の中に陥れた。
間違ったことをしたとは思っていない。しかしそれはきっと、悪いことだった。許されないことだった。
余所事を考えれば考えるほど、綺羅の心情を露わにするように音楽は乱れ、激しく渦巻き、転がり落ちる。もう何度弾き損じたか分からない。指先から流れる血液が、鍵盤を穢してゆく。
指先が燃えるように熱い。まるで火でも点けられたようだ。
正確に、もっと正確に鍵盤を叩かなければ、指が使い物にならなくなってしまう。思ったところで、綺羅は己の音楽を止められなかった。この痛みは与えられるべくして与えられたものだ。己の願望を叶えるために全てを捨て去った綺羅への罰。その罰を甘んじて受け入れる覚悟など、とうの昔にできている。しかし、バッハが讃えた神が許さないのならば、綺羅を許す神の下へ仕えるだけの話だ。綺羅を許した神のために、己の中に存在する音楽を捧げる。そう、例えばエンジェルたちとか。
「綺羅っ!」
耳元で大きな声。同時に綺羅の両腕が強く掴まれ、演奏を強制終了させられる。ハッと意識を現実世界に引き戻されたような感覚がする。驚いて声の方に顔を向けると、険しい顔をして綺羅を睨み付ける瑛一の姿があった。
「その練習方法は駄目だと、何度も言っただろう!」
「……」
綺羅は瑛一の目を見つめたまま数回瞬きをして、目を伏せた。
「……だが……」
「だがなんだ」
「これが、一番……訓練に、なる」
「刃で指を切った小節付近だけを繰り返し練習するならまだしも、血塗れになっても通しで弾いている人間の言うことなど信用できるか」
「……それは、一度通しで、弾いてから、やろうと……」
「嘘を吐くな。お前は絶対にやらない。それどころか、もっと激しい曲を弾くつもりだっただろう」
鋭い語気でキツく言われ、綺羅は口を噤んだ。何も言い返すことが出来ない。その様子を見て、瑛一が深い溜息を吐く。
「無茶な練習はするな」
瑛一は綺羅の手首を掴み、血の滴る指先を見つめた。呆れたような、悲しむような、そんな瞳だった。
「指先を傷つけないように日頃から手袋をしていたのだろう。何故、今になって自ら指を傷つけるようなことする?」
「……」
「まあいい。今救急箱を取ってくる。絶対にピアノは弾くなよ」
パッと手を離し、立ち上がる。そのまま部屋を出ていく瑛一の背中を、綺羅はぼんやりと眺めた。
己の手を改めて見つめる。無数の切傷が、自身の手を鮮やかに彩らせていた。
ああ、俺の指先から、瑛一の色が溢れ出ている。
今なら、もっと天に届く音楽を奏でられる気がする。